須倍神社について



仁和(ニンナ)・延喜(エンギ)年間

須倍神社は延喜式内社で遠江国 引佐郡六座の一つでありまして、人皇58代光孝天皇の御宇、仁和3年(887年)の建宮と伝えられております。


鎮座地都田は伊勢の神宮の御厨として発達した土地でありますから、御祭神は神宮を勧清奉斎したものと思われます。もと内宮は上社として上都田須部の上の山に鎮座し、外宮は下社として下都田中津に鎮座しておりましたが、延喜2年(902年)上社下社の両社を現在地に遷し奉り、神明宮或いは須倍神社と称ようになりました。


慶長・慶安年間

慶長6年徳川家康は伊奈忠次に社領として内宮に四石、外宮に三石を黒印を以て寄進されたのを慶安元年10月24日徳川家光が朱印に改め寄進されました。

明治年間

明治6年3月郷社に列格、同7年5月24日村内の神社69社を外宮に合祀。

明治33年11月征清戦徒紀年碑奉斎

明治40年6月21日神社本庁より幣帛料供進社に指定される。

昭和年間

昭和2年社務所を建築、昭和25年本殿改造、神明造銅葺となし、拝殿の茅葺きを銅葺きに改めた。

昭和55年幣殿渡殿を改修銅葺きとし、更に翌56年手水舎を新築し現在の状態となった。またこの年の7月静岡県神社庁より神社7等級に認証される。

昭和62年(西紀1987年)は建宮以来千百年にあたり境内社の改築、並びに社務所の一部増築を含む修繕を行い5月17日千百年祭を斎行した。

平成年間

平成3年 第2鳥居改築

平成6年 神せん所改築 拝殿床修理

平成10年 本殿堅男木改築







須倍神社





延喜式内社
大化の改新(たいかのかいしん)の後、中国の唐(とう)という国の政治のしくみを見習って、きまりごとによって国をおさめるという律令制度(りつりょうせいど)が日本に取り入れられました。
そして、藤原不比等(ふじわらのふひと)たちにより、701年に大宝律令(たいほうりつりょう)、718年には養老律令(ようろうりつりょう)など、日本の政治のしくみがつくられていきました。
その後、桓武天皇(かんむてんのう)は本格的に律令体制を整えようと794年に平安京(へいあんきょう)の都を今の京都(きょうと)につくりました。
この理想は、平城天皇(へいぜいてんのう)、嵯峨天皇(さがてんのう)へと受けつがれ、嵯峨天皇のもとで、=政治の仕組みに関するきまり・=刑罰に関するきまりの二つをおぎなうために、律令のほかに=律令のきまりを改正できるしくみ・=それぞれのきまりを実際におこなうための細かいきまりがつくられました。
 特に嵯峨天皇のもとで作られた弘仁格式(こうにんかくしき)、後に作られた貞観(じょうがん)・延喜(えんぎ)の格式をあわせて三代格式といい、中でも最も完成されたものが延喜式ということになります。この延喜式の第9巻と第10巻は別名神名帳(じんみょうちょう)ともいわれ、この書物には、当時の日本全国で国家によって管理されていた神社の名がすべて書かれているのです。
この延喜式神名帳に名前の出ている神社のことを延喜式内社、名前の出ていない神社のことを式外社(しきがいしゃ)と呼んでいます。

引佐六座
引佐地区に置かれた6つの式内社のこと。(浜松市に合併するまで都田は引佐に含まれていた。)6つの神社は「イイ」「オズ」「ミヤケ」「ハチサキ」「スベ」「タイセチ」と呼ばれていた。

藤原不比等
大化の改新(たいかのかいしん)で活躍した中臣鎌足(なかとみのかまたり=藤原鎌足)の子で、さらに奈良の大仏をつくった聖武天皇(しょうむてんのう)の皇后(こうごう=妻)光明子(こうみょうし)の父にあたる。藤原氏がどれほどの力を持って政治の中心に関わっていたかがうかがえる。
当須倍神社が今の場所に造られたといわれる頃には、藤原三兄弟による菅原道真の太宰府左遷(させん=地位が下がる)など、藤原氏の政権独占(=ひとりじめ)が進んでいました。
 これを受けてかは定かでありませんが、須倍神社の外宮には、今日学問の神様といわれている「天神様=菅原道真」が祀られています。
 受験や学力診断など、須倍神社で学業成就を祈願するのであれば、この天神様のほかに境内社(本殿向かって左側にある2つのお社です。)である姥神社に祀られている石凝姥命「イシゴリオノミコト」に祈願することをおすすめします。石凝姥命は思兼命「オモイカネノミコト」というたいへん賢い神様の親に当たる神様で、古代権力の象徴であった銅や鉄を作り出す神様として祀られ、現代では商工業のみならず学問の神様としても崇められていて、この辺りでは大変珍しい神様です。


左遷
左遷の遷という漢字には移す(うつす)という意味があります。ですから左遷とは文字通り左に移すということです。中学1年生で学習した律令制度の中に二官八省(にかんはっしょう)という言葉があったのを覚えていますか?・・・二官すなわち太政官(だいじょうかん=だじょうかん)と神祇官(じんぎかん)のもとに宮内省、中務省、治部省、兵部省、民部省、刑部省、式部省、大蔵省の八省が置かれていましたね。この太政官で働いていた役人を高い位から順にみると、太政大臣→左大臣→右大臣→大納言→少納言・・・となります。左大臣は天皇から見て左側に位置することが作法として決められていていました。(一般人から見ると右側になりますね。)左大臣が何か失敗をしてその位を落とされると右大臣、すなわち私たちから見て左側に位置することになります。このことから役職を落とされることを左遷というようになりました。
 脱線ついでにいうと、菅原道真が左遷された先は、外交、国防の重要な地であった九州の太宰府でしたが、都からは遠く、遣唐使を廃止(894年)するなどの活躍をしていた右大臣から大宰権帥へと地位を落とされた道真は失意のうちに903年(延喜年)、この世を去りました。
 その後、藤原氏一門に災いがふりかかるようになり、道長をおとしいれた左大臣藤原時平は、たたりで病死したと噂されました。特に、内裏の清涼殿に雷が落ちて、会議中の公卿が亡くなるという事件がおこると、道真の霊をなぐさめるために北野天満宮(京都府)が造られました。
 須倍神社にもこの菅原道真公がお奉りされています。菅原道真公は非常に賢かったところから全国で学問の神様、天神様として奉られています。
 また須倍神社に合祀されている神社に雷神社があります。須部に鎮座する雷神社と同じ神様を奉っていますが、この雷神社の御神徳は雷除け、疫病・病虫害除けと伝えられており、この都田はもとより日本全国に雷除けのお社が造られたのもこの頃が始まりではないかといわれています。
 

御厨(みくりや)
口分田を与えるかわりに税を納めさせるという班田収受法が、重税に耐えかねた農民の逃散によってうまくいかなくなると、朝廷は、農民の耕作意欲を高めようと三世一身法・墾田永年私財法を発布して農民の土地私有を認めました。これによって大きく崩れた制度が公地公民でした。私有地は次第に、不輸(税を納めなくてよい)の権・不入(国司の立ち入り拒否)の権などの特権を持つ有力な貴族、寺院、神社に荘園として寄進されていきました。このような歴史的背景のもとでの都田はというと、最も有力な神社である伊勢の神宮(三重県)の社地として保護されていたわけです。厨(くりや)とは台所という意味で、古代から中世にかけて伊勢神宮や加茂社にお供えする穀物、魚介類、果物、特産品、塩などを調達するための土地のことで、その用途に応じて呼び名がありました。御厨は御園(みその)とも呼ばれ、現代でも浜北市や三ヶ日町にその地名をみることができます。
 お供え物は主に「お米」「お酒」「お餅」「海の幸」「山の幸」「お菓子」「果物」「お塩」「お水」が一般的で、須倍神社の色々なお祭りの中でも、1年間に3回おこなわれる大祭では、当番区から選ばれた小学校・中学校の児童・生徒が女子は舞姫、男子は助勤者として、浦安の舞という踊りを神様に奉納し、また、古式の作法にしたがって神せん所から内宮(向かって右)・外宮(向かって左)へお供え物を運びます。

神明宮(しんめいぐう)
日本全国でも八幡神社と並んで最も多く存在する神社。伊勢の神宮と同じく「天照皇大神」を御祭神としておまつりする神社。

幕末から明治へ
豊臣秀吉の兵農分離政策として行われた検地・刀狩りによって、農民は耕作の権利と納税の義務を与えられ、徳川家康は士農工商という身分制度を確立しました。しかし、幕藩体制による封建制度が続く中で、約260年間その支配体制をほとんど変化させることなく農民・町人を支配した武士たちに対して、農民や町人はというと、貨幣経済の発達に伴う商品作物の栽培や、家内制手工業から問屋制、さらには工場制手工業(マニュファクチュア)へと生産方法を発展させて次第に力を備えて支配者であった武士たちとの力関係を縮めていきました。その中で神社神道にとっても大きな転機が訪れていたのです。それが神葬祭の復活です。
 幕府はキリスト教の禁教のために寺請制度、宗門改めをおこなうことで、すべての人を仏教徒に改宗させました。また、神社・神職に対しても諸社祢宜神主法度(しょしゃねぎかんぬしはっと)で統制し、これによって神道式による葬式は禁止されてしまったのです。これは、朝廷との結びつきの強い神社・神道の勢力を縮小することで天皇の権力を低下させること。にもなりました。
 庶民統制に仏教が用いられたもう一つの目的は、村や寺院に共同墓地・お墓を作ることで、重税による辛い生活を強いられてる農民の逃亡を防ぐことです。奈良時代に土地の私有が進む元となったのが農民の逃亡でした。この頃は土葬で、石のお墓を建てないため、まつるものがいなくなれば歳月によってお墓は跡形もなくなりました。文字通り土にかえった訳です。こうなれば心残りもなく自由に逃亡できたのですが、幕府は日本人の先祖崇拝をうまく利用して石塔によるお墓を作ることで逃亡を思いとどまらせ、年貢を確保することができたのです。約230年の鎖国が終わり、隠れキリシタンとして幕府の監視を逃れて生き残った子孫が、開国後キリスト教国の人々を驚かせた話は有名ですが、神道もまた、幕府の厳しい統制から解き放たれ、明治時代になってようやく神道式の葬式を認められるようになったのです。
 神道式の葬式のことを神葬祭(しんそうさい)と言います。日本最古の歴史書ともいえる「古事記」「日本書紀」にも登場する日本固有の葬儀方法を、現代の生活に順応させつつ、おごそかで誰にでもわかりやすく、しかも質素につとめるところから今日では神葬祭が増える傾向にあります。
 また脱線してしまいましたが、江戸時代の末期には、武士と町人・農民の支配関係が弱体化し、幕府や諸藩の財政難など、支配体制が内部から崩壊しかけている中で、黒船が出現して外部から幕府を滅亡へと追い込む事になりました。
 インド、清(今の中国)がイギリスの植民地となり、次はいよいよ日本かと、オランダ風説書などにより、ある程度は海外の様子を知っていた幕府に対して、ペリーがフィルモアの国書を持参して開国を要求したことは有名ですが、この時ペリーは国書と一緒に白旗を日本に渡し、来年開国の要求が認められなければ武力の行使もあり得る、その際はこの旗を振るようにと言い残して帰っていった話はあまり知られていないようです。このペリーの強引な要求によって日米和親条約、後には日米修好通商条約の不平等条約が結ばれました。
 しかし、このような不平等条約が結ばれ、欧米列強の植民地となっていくことを武士たちは黙ってみていたわけではありませんでした。後に雄藩と呼ばれる薩摩藩や長州藩は尊王攘夷の考えをもとにイギリス、フランス、アメリカ、オランダを相手に薩英戦争や四国艦隊下関砲撃事件をくりひろげ、戦火を交えていました。その結果はご存じの通り、大航海時代を制した欧米列強と鎖国の眠りの中にあった日本では、その圧倒的な戦力の違いに為す術もなく敗れ去りました。これによって幕府や雄藩は今の幕藩体制のままでは、いずれ日本は欧米列強の植民地になるであろうことを痛感していったのです。そんな中で日本を救う手段として導き出された答えが、日本をひとつにまとめ上げて欧米に対抗していくということでした。
 ところが、江戸幕府にはすでに日本をひとつにまとめ上げるだけの権力は持ち備えていませんでした。そこで後に尊王攘夷論と深く結びつく朱子学の大義名分である「徳をもっておさめる王者は力を持って支配する覇者にまさる」という考えを天皇にあてはめ、天皇を中心として幕府・藩という枠組みを取り去ることで、各藩単位での欧米との衝突を防ぎ、1つの日本国として欧米列強の植民地支配から日本を守る体制を整えていきました。そして、大政奉還、王政復古の大号令、戊辰戦争をへて名実ともに天皇中心の中央集権国家が形成されたのです。
 新政府は明治維新のなかで、米による年貢徴収を廃し、現金納税による長期的、計画的な政策の実施を可能なものとし、政府主導による富国強兵、殖産興業政策の中で、幕末までに工場制手工業まで発展させていた日本の工業は、近隣諸国とはかけ離れたスピードで富岡製糸場を初めとする紡績業での機械技術導入を可能とし、日本の産業革命を成し遂げました。その後、官営八幡製鉄所の鉄鋼業や造船などの重工業を発展させた日本は、日露戦争での日本海海戦で軍事上の勝敗を決しました。同時に幕末に結ばれた不平等条約のうち、日清戦争直前に治外法権を撤廃し、日露戦争後には関税自主権を回復しました。ついに日本は条約上欧米列強と対等の地位を得ることができたのです。このように日本は天皇を中心として国をひとつにまとめることによって、欧米の植民地化を回避することができたのです。
軍部の台頭(教育に関わることなので教科書通り敬称を略します。)
 日本の歴史のいたるところで登場してくる天皇、あるいは神社神道の位置づけについては戦後教育の現場や、核家族化の進む家庭教育の中で、なかなか取り上げにくいという風潮があり、天皇や神話を説くものに対し、危険人物といった偏見がまかり通るといった問題まで発生してしまいました。これが農本国日本の文化継承に悪影響を与え、我が国の歴史教育に空洞化を起こしかねないことから、多少ですが述べておきたいと思います。
 イエス・キリストが誕生してから2000年ということはよく知られていますが、日本が成立してから約2660年が経過していることはあまり知られていません。戦前は当たり前に知られていたことが、戦後教育を受けたものから次第にこぼれ落ちているものが実在するわけです。これは、昭和22年に設置された社会科において、文部省が刊行した小学校の歴史教科書の中で、日本史は建国神話からではなく、考古学的記述から始められたことに由来しています。ですから、現代の義務教育を受けたものの中には、自国の建国の歴史、あるいは自国の神話すら知らないものが存在するわけです。
 それでも今の教科書を見ると、古墳時代の大王や聖徳太子が目指した天皇中心の国づくりにはじまり、国家の安泰を願い、国を治める象徴として脈々と受け継がれてきた天皇について、時にはその時代を代表する人物として、時には政権争いの中心として取り上げられています。それではいったいなぜ、戦前戦後では天皇の位置づけが異なってしまったのでしょうか。
 昭和20年のポツダム宣言(日本の無条件降伏)受諾以降、指令・勧告という名のもとに間接統治をおこなったGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は、アメリカ主導の占領政策の目標として、日本の非軍事化・民主化を達成させ、再びアメリカの脅威となることを防ぐことをその根本におきました。そこで、占領政策の一つとして、国家と神道の分離を指令したのです。 では、なぜ大統領就任式に際してキリスト教の聖書に手を置いて宣誓をおこなう国、則ち政教を分離していないアメリカを中心としたGHQは、日本に対して政教分離を要求したのでしょう。連合国が戦時中最も恐れたのが、日本軍の統率力、自己を犠牲にしても祖国を守る精神力の強さでした。被爆と敗戦によって現代では、誰もが戦争はいけないことと認知しています。しかし18世紀後半から始まった産業革命による植民地支配の大きなうねりは、確実にアジアを巻き込み、この中で日本もまた大きなあやまちを犯しました。この戦争という大きなあやまちの中で、私たちの両親、祖父、祖母、ご先祖様たちは自国を守るために武器を手にしました。すでに知っている人も多いと思いますが「お国のため」にたたかい、多くの方が亡くなりました。ここで尊い人命が犠牲になったという過去を決して忘れてはいけません。しかし残念なことにこの過ちをくり返さないために語り継がれる体験談や物語の中で、当時の兵隊さんがすべて天皇陛下のために命を捧げて亡くなられたという大きな誤解が生じてしまったのです。これが戦後教育や家庭教育において、天皇の位置づけを不安定な状況にしている要因の一つではないかと考えています。
 戦争という苦い経験を語り継いでいく中で大人や教育者が特に気をつけなければならないことは、参戦した人々は、自分の愛する人、家族、国を守るために戦ったということ、そして当時の軍部をはじめとする戦争指導者達は国民統率の必要上、幕末以来、ことごとく外国を打ち払ってきた天皇中心とした神国日本をより強調するために、もともと国民に深く根付いていた神社神道をその統率の手段として使ったこと、それらすべてを包み込んで「お国のため」、「陛下のため」という言葉を用いたのだということを、一人ひとりの心に一歩踏み込んで、恥じることなく脈々と伝えていかなければなりません。それと共に、この言葉が用いられた背景には、軍部が権力を掌握した事が大きく関わっていますが、靖国神社を初め、護国神社、全国各地に英霊として、また犠牲者としてまつられる人々を戦争があやまちだからということで安易にこれを否定し、非難することは絶対にしないで下さい。更に、連合国と戦ったイタリア、ドイツ、日本それぞれの権力者達をの最後をみたとき、ムッソリーニは国民の暴動によって家族共々なぶり殺され、ヒトラーが自らの命を絶った後、日本では東条英機以下7名の不当な死刑判決に先だって、天皇はマッカーサーと会見し、「戦争の責任は全て自分にある。私はどうなってもかまわないから、国民の命を助けてもらいたい」と陳情したことは忘れてはならないことであり、敗者が亡命等で国外脱出をはかろうとする昨今の指導者とは比較すらできない偉大な発言ではなかったかと感じています。決して戦争を肯定するものではありませんが、産業革命以後植民地になったアジア・アフリカの国々が、依然として解決をみない南北問題の中でその発展の遅れがどのような貧困の状況を作り出しているのかということを見れば、自ずと日本がなぜ戦争をしたのかという疑問の解答も見えてくるのではないかと思います。

 ここまで話した都合上、どのようにして軍部が権力を手にしたのか、またそれを止めることはできなかったのかということを簡単にですが政治史から見てみたいと思います。
明治維新以来、自由民権運動を経て近代憲法としての大日本帝国憲法が制定されました。君主権の強いプロシア(ドイツ)の憲法にならい、憲法による拘束(第4条)を受けながらも天皇には天皇大権が与えられ、陸海軍の統帥は内閣からも独立して天皇に直属していました。これは過去の封建社会における歴史や幕末・明治の欧米列強による植民地化を無事に切り抜けた経緯を見ても不自然なことではないのですが、ここで一般的に言われている軍部の台頭がどのように形成されていったのかを知る必要があると思います。議会政治導入当初の黒田清隆の超然主義(政策は政党の意向に左右されない)は、日本初の衆議院議員選挙での立憲自由党、立憲改進党の民党の圧勝に始まり、隈板内閣(大隈重信:立憲改進党/板垣退助:自由党)、立憲政友会(伊藤博文)の台頭によって押し退けられ、西園寺公望の政友会、桂太郎の官僚・貴族院勢力が交互に内閣を担当する桂園(桂太郎・西園寺公望)時代を経て、次第に政党政治の色合いは濃くなりました。この間、1900年には労働運動を取り締まる治安警察法が制定され、安部磯雄・片山潜・幸徳秋水らの社会民主党は結成直後に解散を命じられ、1910年には大逆事件により無政府主義者、社会主義者26名が逮捕され12名の死刑が執行されました。この時、特別高等課(特高=思想警察)が設置され社会主義者は「冬の時代」を迎えることになったのです。1911年には辛亥革命に刺激された陸軍が朝鮮駐屯師団増設を強く迫り、西園寺内閣との対立が深まる中、美濃部達吉の政党内閣支持論によって世論には軍部の横暴に反対する風潮が形成されました。1912年に陸軍駐屯師団増設が閣議で否決されると、陸軍大臣上原勇作が天皇に辞表を提出し西園寺内閣は総辞職となったのです。その後第3次桂内閣の時、宮中と政治の境界が乱れるとの非難から、犬養毅(立憲国民党)と尾崎行雄(立憲政友会)中心に閥族打破・憲政擁護の第一次護憲運動が始まりました。桂太郎は立憲同志会を組織して運動に対抗しましたが退陣、跡を継いだ海軍大将山本権兵衛は政友会を与党に取り入れ組閣し、文官任用令を改正し、軍部大臣現役武官制を改めてその資格を広げ、軍部の政治への影響力を高めましたがシーメンス事件で退陣、さらに元老や陸軍は日英同盟を理由にドイツに宣戦し、対華二十一カ条の要求で民衆に人気のある大隈重信に第2次内閣を組閣させ、政友会に打撃を与え、陸海軍と内閣の調整をはかって衆議院を解散。1915年の総選挙で同志会らの与党が政友会に圧勝し、陸軍の朝鮮駐屯2師団増設案が議会を通過した。 吉野作造が民本主義を提唱し政治の民主化を求める声が高まる中、第2次大隈内閣は総辞職し、第1次世界大戦の好景気の中で寺内正毅が発足するが、シベリア出兵に絡む米騒動鎮圧に軍隊を出動させたため批判の声が高まり総辞職しました。そして1918年ついに元老は政党内閣を認めることになり、衆議院第1党立憲政友会総裁の原敬内閣が発足。日本は国際連盟の常任理事国の一つとなり、中国では五・四運動、朝鮮では三・一運動といった独立の気運が高まる中で日本は同化政策として皇民化政策を実施しました。国内では積極政策を行った原敬首相でしたが政治腐敗に憤った青年に刺殺されてしまいました。

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