須倍神社の御祭神

内宮
[外宮へ]

内宮 本殿

千木は内削(水平切)、
鰹木は6本(本殿偶数)。

御祭神
天照皇大神
相殿神
天手力男命

拷幡千々比売命

 元上都田須部の上の山に鎮座。現在の源宮神社の鎮座する周辺と伝えられる。

現在の本殿は昭和25年に改築されたもので、神明造銅葺である。平成10年に改修した鰹木(堅男木)が新しい。



内宮と外宮の両殿は、延喜2年(902)に現在の場所に遷され、
神明宮或いは須倍神社と称されるようになった。




雪の本殿





須倍神社の御祭神

古事記・日本書紀より




天の岩戸


 遠い昔、天照大御神(アマテラスオオミカミ)さまという、太陽のように大切で貴く、やさしい神さまが、たくさんの神々がお住まいになる高天原(タカマノハラ)をお治めになっておられました。
 そして、その弟に須佐之男命(スサノオノミコト)という神さまがいらっしゃいましたが、この神さまは、力が強く、たいへん乱暴な神さまでした。
 ある日、天照大御神さまが機(ハタ)を織っておられると、須佐之男命は大御神さまを驚かせようと、そっと御殿に忍びより、天井からドサッと馬を投げ入れました。大御神さまはあまりのことに驚かれ、天の岩戸(アメノイワト)という洞窟のような岩屋にお入りになって、閉じこもってしまわれました。
 さあ大変です。太陽のようにうるわしい天照大御神さまが隠れてしまわれたのですから、高天原は真っ暗闇になってしまいました。困り果てた神々は天の安河原に集まり相談しましたが、なかなかよい方法が見つかりません。するとそのとき思兼神(オモイカネノカミ)というたいへん賢い神さまに、よい案が浮かびました。
 まず、ニワトリを集めて鳴かせてから、天の岩戸の前で天照大御神さまのお出ましを願うお祭りを始めました。これに合わせて、踊りの上手な天宇受売命(アメノウズメノミコト)が、桶を伏せて、その上で拍子をとりながら、にぎやかに踊り始めました。神々は手をたたいて笑い合い、高天原は神々の笑い声にわき返りました。
 岩屋の中の天照大御神さまは、外があまりにもにぎやかなので不思議に思って、岩戸をほんの少しだけお開けになりました。すると、天宇受売命が「大御神さま、あなたさまより貴い神さまがいらっしゃったので、みんなで喜んでいるのです」と申し上げたものですから、大御神さまは、いっそう不思議に思われて、もう少しだけ岩戸をお開けになりました。
 その時です。岩戸のかげに隠れていた力の強い天手力男神(アメノタヂカラオノカミ)は、力いっぱいに岩戸を押し開き、大御神さまのお手を取り、外にお出し申し上げました。天照大御神さまが外にお出になると、真っ暗闇だった世の中も見る見るうちに明るくなり、高天原にふたたび平和がもどったのでした。 
 


天孫降臨


 天照大御神さまは、日本の国が、みずみずしい稲が豊かに実るすばらしい国になるように願いを込めて、豊葦原瑞穂国(トヨアシハラノミズホノクニ)とお呼びになりました。そして、お孫さまの邇邇芸命(ニニギノミコト)に三種神器(サンシュノシンキ)である八た鏡(ヤタノカガミ)・八坂に勾玉(ヤサカニノマガタマ)・草薙剣(クサナギノツルギ)をお授けになり、高天原から瑞穂国に天降り(アマクダリ)、平和で豊かな国として治めるようお命じになられました。
 さっそく、邇邇芸命が高天原に住む神々をともなわれ、天降られようとすると、光を発している神さまが見えます。天照大御神さまは不思議に思われ、天宇受売命という神さまを使いに送り、どうしてそこにいるのかをうかがわせました。その神さまの名は猿田毘古神(サルタヒコノカミ)といい、邇邇芸命が高天原から天降られることを聞き、お迎えにあがったのだと答えました。
 そこで、邇邇芸命は、この神さまをおともに加えられ、いくえにも重なった雲を押し分け押し分け、筑紫の日向の高千穂の峰に天降られました。命はこの地をとても気に入られ、立派な宮殿をお建てになりました。
 その後、邇邇芸命のご子孫は栄え、豊葦原瑞穂国をお治めになりました。





外宮
[内宮へ]

外宮 本殿

千木は外削(垂直切)、
鰹木は5本(本殿奇数)。

御祭神
豊受姫大神
相殿神

皇孫邇々藝命

天児屋根命

天太玉主命

 元下都田中津に鎮座。現在の中津と一色の境と伝えられる。

本殿は内宮同様、神明造銅葺である。明治7年都田村内69社を合祀。