ハワイからの脱出

テロ



2001年9月11日の早朝



第一声「何これ」



「 HONOLULU AIRPORT CLOSED ALL 」
「う〜ん、日本の学校はやってるよな・・・」









「無事に日本へ着きますように」



「これで月曜の仕事に間に合う」



行きと変わって大混雑



「やっぱり日本は忙しい」



「みんな一緒に頑張ろう」

9月11日の早朝、まだ暗いうちになぜか目が覚め、テレビをつけて我が目を疑った。CNNが映画の宣伝かとも思ったが、そんな雰囲気でもない。結局、夜が明けるまで事実の確認もとれず朝を待った。テレビの字幕にはHI ALERTやHONOLULU AIR-PORT CLOSEDの文字が流れっぱなし、アラモアナ・ショッピングセンターですら閉鎖。とにかく人の集まるところはすべて閉鎖となりました。



どこもかしこも危険となれば、一番安全なのはビーチということになり、予定外の海水浴になりました。水着を購入していざ海へ・・・。シェラトン・モアナ・サーフライダー、キングス・ビレッジの旗はそれぞれ半旗でしたから、すべてが陽気とはいきませんでしたが、何より有事に家族が共に過ごせることの有り難さが実感できました。
ツアーは、私たちより1日早い11日帰国予定でしたから、最終日12日はツアーとも離れて過ごす予定でしたが、一緒にいた方が安心と皆様に心配していただき、そのままツアーと合流。
とはいえ、宿泊ホテルやレンタカー等々の手配はすべて個人でしたから、この時ばかりは携帯電話が重宝しました。現地で張り出された連絡カウンターは電話がまったくつながらなかったのですが、予約などの確認をとった際に電話番号などをすべてメモしていたので、現地からではとても連絡のとれなかったJALの日本、ホノルル両カウンターとも連絡が取れ、「11日帰国予定のツアーがあること」「女性と子どもがいること」「家族一緒に飛行機に乗ること」を要求として告げ、ホテルのルームナンバーと携帯の番号を控えてもらい連絡回線を確保することができました。この時に電話をかける先々で、大勢の人々から「大変でしょうが、がんばって下さい」と励ましの言葉をいただき勇気づけられました。
「本当に、ありがとうございました。」



そこでつい調子に乗ったというか平和ボケというか、ワイキキより物価の安いといわれたダイエーでお土産を買おうと、アラモアナとパールシティーのダイエーをはしごし、ついでに真珠湾の戦艦ミズーリも見学しようと思ったのですが、そこでハプニングが待っていました。普段でも民間車両は通行できないとあらかじめわかっていた道路に入ってしまったのです。Uターンすればよいだけなのですがその日は違いました。最高レベルの非常事態宣言中ですから、完全武装した海兵隊員が検問所にいるではありませんか。軍用道路ですから道路には私たちの車だけです。とっさに「Uターンしたら撃たれる」と思いそのままゆっくりと検問所へ進み、道を間違えたことと、マイティー・モー(ミズーリ号の愛称)が見たかったことを告げると、「今すぐここでUターンしろ」と命令されたので、ホッと胸を撫で下ろしながら引き返しましたが、さすがに後悔の念にかられました。


「厳しい検問(真珠湾)」


結局、滞在が2日延期となった朝、1日早く帰国予定だったツアーが帰れることになったとの連絡を受け、すぐに見送りに出たのですが、もうすでにホテルを出た後でした。まあ、かえって皆様に心配をかけずに良かったと思いながら部屋に戻るとすぐにJALから3人揃って帰国できると連絡が入り、直ちに空港へ。レンタカーへ自分でガソリンを入れるところを撮影しようと楽しみにしていたのですが一分一秒が貴重と、スタンドのおじさんに入れたもらったことが心残り(そんなことかい)でしたが、空港で待っていたのは、手荷物検査を受ける順番を待つ人々の長蛇の列と自動小銃を下げた海兵隊員でした。





テロ警戒と混乱回避の配慮から、搭乗待合室に入れるのはボーディングパスを持つ者だけでした。

手荷物検査では、カバンの中にあった爪切りを没収され、D.F.Sで買ったものが空港に届かず別送品扱いになってしまいましたが、予定より2時間30分遅れで飛行機は無事成田へと出発しました。
その飛行機が「救援機」であったことを知ったのは、帰国してからの事でした。そんなこととは知らず、往復で予約したはずのチャイルドフードが出なかったのでクレームをつけたところ、スチュワーデスさんは笑顔ですぐに取り替えてくれました。情報の混乱する中での迅速なサービスと、危険な所へ、利益抜きで空席の航空機を飛ばしてくれたことに感謝すると共に、さすがJAL「もう高いなんて言わないぞ」と思ったのですが・・・。