とおつかみえみため
いつのみたまをさきはえたまへ



 神葬祭について 

 豊かな生活と引き替えに少なくなったとはいえ、私たち日本人の家庭には古くから祖先をまつる祭壇がありました。今はそのほとんどを仏壇が占めていますが、神道では祖霊舎(みたまや)といいます。中には神棚と仏壇をお奉りする家庭も多いことでしょう。その形には多少の違いはありますが、そこには「ご先祖様をまつる心」があります。
これは、私たちが受け継いできた伝統の中で、祖先を大切にし、祖先の恩に感謝することがもっとも大切であるという人間本来の良心が、長い時を経て形式化されてきたことを意味しています。
 人生儀礼では、人生最後を飾るもっとも大切な儀式が葬儀、すなわち神葬祭となるわけです。
神葬祭はすでに仏教伝来以前からあったことが、『古事記』『日本書紀』といった古典にも記されていて、仏教伝来以前に葬送の習わしがあったことを物語っています。
『日本書紀』【四神出生章】では、土俗(くにひと)、此の神の魂(みたま)を祭るには花の時には亦花を以て祭る、又鼓吹幡旗(つづみふえはた)を用て、歌い舞ひて祭る。とあって古代における死後の葬送の模様が記されています。
『古事記』【天若日子の段】では、喪屋を作りて河贋(かはがり)を岐佐理持と為、鷺を掃持(ははきもち)と為、翠鳥を御食人(みけびと)と為、雀を碓女(うすめ)と為、雉を哭女(なきめ)と為、如此行い定めて、日八日夜八夜(ひやかよやよ)を遊びき。とあり、いずれも日本民族固有の葬儀のならわしのあったことを示しています。
仏教伝来以降は、急速に仏式による葬儀が普及し、さらに江戸時代になると身分階級制度を確立し、神前皆平等とするキリスト教を弾圧しようとする幕府の寺請制度(誰もが必ず壇家としてお寺に所属しなければならないというしくみ)が実施されたことから、 仏式が葬儀の大半を占めるという慣習が広まりました。
その中で神葬祭は衰退の一途をたどったのですが、幕末に入り、蘭学をはじめとする西洋文化の流入や、日本の伝統を見直す動きが強まり、国学者による神葬祭の研究も行われるようになりました。これにより神職とその嫡子に限って神葬祭が許可されるようになったのです (葬儀は穢(けがれ)であるとして一般には認められていなかった)。
維新後、宗門改めの制度が廃され、神仏分離政策ともあいまって全国へ広まり、明治五年には第192号布告によって、神官は氏子などからの依頼ある時には喪主を助けて神葬祭を取扱うよう承認されるようになりました。現代では、『神社は国家の宗祀にして宗教にあらず』とする国家神道の立場から慎まれていた葬祭も、官社・民社の区別なく広く民間にまで神葬祭が執り行われるようになっています。
現在は300年以上禁止されながらも、脈々と受け継がれてきた神葬祭が見直され、民俗信仰と結びつきつつ広く庶民に広まっていく過渡期であると解釈しています。
 神道では、悲しみや不幸を「はらい」や「まつり」によって清めていくことが大切であると考えられています。ですから、亡くなられた方は年祭を重ねることによって、やがて祖先の神々の一員に加えられ、子孫を守護する護り神に祭りあげられていくわけです。
これらの伝統を経て、今に伝えられる神葬祭についてその現状を見ると、地域性はあるものの以下のようになると思われます。

神葬祭の式次第

 神式では、葬儀を神社でおこなわないので、自宅や斎場などでおこないます。
 家族のものが亡くなるとまず忌服に関係なき人が神棚の扉を閉め、神棚前面中央に白紙をはります。そして、祖霊社または氏神様に何某の命終れる由を報告し、病気平癒等を祈願した神社があれば、これも忌服に関係なき人を代参させ、あるいは遙拝して祈願を解きます。
 次に喪主を決めます。嫡子がこれにあたりますが、嫡子がないときは摘孫がこれにあたり、摘孫のない時には近親者より決めます。兄姉の亡くなったときには弟妹をもって喪主とします。
 当都田地区では、亡くなられた方が出ると、隣近所が一切をとり仕切り、親類縁者の連絡から葬儀の日取り(友引は避けた方がよいでしょう)、各人の役割などすべての段取りを相談していました。
 戸口には忌中札を立てます。次に枕直しの儀を行います。近親者が集まり遺体に白木綿の小袖を着せ、 もがり室(遺体を安置する部屋)に移して寝かせます。この時、頭を北に仰向けにして寝かせるのを普通としますが、東方あるいは室の上位でもかまいません。また、地域によっては仏式の観点から西向を向かせることもあります。
顔には新しい白布をかけ、枕飾りとして枕元には案という机に三方を置き、守鏡、洗米、御神酒、塩、水、榊、ロウソク(または本人が生前好きだった食物等) を供えます。夜には灯りをともし、消えないように気をつけます。また守り刀は柄を向こうにし、遺体にその刃先を向けないようにして枕もと、または布団の上におきます。
枕飾りがすんだら、遺族、近親者、親しい人たちが、故人の安らかな眠りを祈ります。そして、場所によっては納棺が遷霊祭と前後する場合があるようですが、通夜祭を迎えます。

ここまでの所作を親族家族だけで行う地域と、神官が帰幽報告祭等の祝詞をもって奉仕する地域があるので、地域の習わしに則ってもらえればよいと思います。

 お清めの湯かんは、遺体を沐浴させて、身を清め、髪を整え、爪を切り、新しい衣服を着せます。沐浴の儀をやや省略して、顔面等を拭い清めるものや、アルコールで拭く他、榊の葉をもって水をそそいで沐浴にかえる場合もあります。
 湯かん、沐浴の水は日陰に捨てる習わしとなっています。
 納棺は、まず喪主が一拝(親族はこれにならう)した後、着衣の衿をほぐし、左前に合わせます。藁草履を履かせ、はきかえようの草履も揃えます。面上に白布を覆い、褥(しとね)を敷いて親族の手で遺体を棺に納め、礼服および生前愛用の品々を納め、充嚢を詰めて蓋をし、白布でおおいます。この時はまだくぎ打ちはしません。
 棺を通夜祭をおこなう部屋へ移し、祭壇の中央に安置します。その後、手水をとり、遺影とお供えをして棺前に着座します。
 喪主、遺族、近親者、参列者の順で二礼・二拍手・一拝をしのび手(音をたてない拍手)にておこない、最後に喪主がもう一度拝礼をします。
 当都田地区では、湯かん、納棺の後は不浄を祓うため、故人の服を皆で都田川まで洗いに行き、日陰に北向きに夜干しをし、また、身を清めるために入浴などをしていました。

柩前日供の儀

 納棺から出棺までの朝夕の2回、日常の食膳を、故人の使用していた食器又は木皿で供えて、喪主、家族が拝礼します。
 お箸をたてたり、お椀を左右逆に据えるなどいろいろな作法がありますが、生前同様に供えていただければよいと思います。

お通夜

 お通夜は家族や近親者によってお葬式の前夜に、読んで字のごとく夜を通しておこなわれます。
通夜祭は死亡後、葬儀を行うまでの間、遺体のあるところで生前同様に礼を尽くして手厚くおこなう儀式です。通夜祭と同時に遷霊祭の儀を行います。(遷霊は地域によって執行する時に違いがあります。)
遷霊祭では亡くなられた方の御霊を霊璽(れいじ)、または御霊代(みたましろ)といわれる白木の「みしるし」に遷し奉ります。
霊璽には霊号、おくり名(仏式では戒名)が記されしばらくの間は仮御霊舎に鎮められます。また通夜祭にて悲しみや慕いの気持ちをこめた「祭詞」を奏上し、遺族の方は「玉串」を捧げてお参りします。

神葬祭では、神主から玉串を受けたら、御霊前の案(あん:台のこと)の前まで進み、軽くお辞儀をして故人への思いを念じ、玉串を案の上に置きます。 この時玉串は時計回りに、根本が御霊前の方を向くように置きます。 次に、しのび手で二礼二拍手一拝で軽くお辞儀をして2、3歩さがります。神主、喪主に会釈をして元の位置に戻ります。

 この頃までに、故人の生年月日や生い立ちをはじめ、配偶者や兄弟の名前など、告別祭祝詞で奏上する内容を書き留めておくとよいでしょう。
 また、なかなか思い出せないこともあるでしょうから、故人を偲びつつ、家族や親類、友人たちとの会話を通じて気づいたことを書き留めるのもよいかと思います。

告別

 これも地域によって若干のちがいが見られるようです。ここでは簡単な式次第を載せるに留めたいと思います。

式次第(例)

( 一 )親族参列者着座
( 二 )神職入場
( 三 )開式の辞
( 四 )祓詞奏上
( 五 )修祓の儀
( 六 )斎主一拝
( 七 )献饌・献灯
( 八 )斎主祭詞奏上
( 九 )弔辞
( 十 )弔電
(十一)玉串奉奠
(十二)消灯・撤饌
(十三)斎主一拝
(十四)閉式の辞
(十五)神職退場
(十六) 遺族代表挨拶

発柩(出棺)祭

 葬送の儀を行うにあたり、発柩の直前にその由を柩前に告げ奉る儀で、この儀が終れば直ちに霊柩を奉じ、葬列を整え、斎場へ出発します。
 発柩祭後出発までの間にお別れのはなむけを行います。故人が生前愛用の品を納めることもありますが、燃え残るものは避けた方がよいでしょう。くぎ打ちは火葬場で最後のお別れがあるので、顔が見えるように見開きのある白布の上から注連縄を張り、紙垂をつけてから祭場をあとにします。


発柩後祓除の儀
 俗に後祓(あとばらえ)といい、発柩の後、通夜祭以来の祭壇を撤し、家内の火を改め、各部屋を清掃し、祓主または祓所役が、家に留まれる家族、親族、隣保などをはじめ各室、屋敷内を隈なく祓い清めます。

火葬祭
 神主の祭詞奏上のあと、玉串奉奠をおこないます。
 最後に一同拝礼。唱えことば奏上。

帰家祭
 喪主以下親族家族が帰家の後、仮霊舎の御霊前において、葬儀が滞りなく終了した由を報告する祭儀で、今後翌日祭をはじめ、毎十日祭、忌み明けの五十日祭まではこの仮霊舎の御霊前でお祭りを営みます。

十日祭
 帰幽の日から十日、二十日、三十日、四十日、五十日と十日毎に霊前において行われる祭儀で、五十日祭は最後の十日祭でもあり、一般的には忌明けを意味します。また、五十日祭を以て仮霊舎に祀れる霊璽を祖霊舎に合祀する例にもなっているので、ことに重い祭儀とされています。

五十日祭
 帰幽の日から五十日後に霊前・墓前にて行われる祭儀。祝詞奏上を以て忌明けと為し、祖霊舎の半紙や、霊璽の半紙を取り除き、納骨によりご先祖様とともに合わせ祀ります。

百日祭
 帰幽の日から百日目に行う祭儀。殊に節目の祭儀には鄭重に祭祀が営まれます。

一年祭
 帰幽の日から一年後に霊前・墓前にて行われる祭儀。この一年祭の前に墓標を撤し、石碑に改めるのが普通とされています。
 この後、三年、五年、七年、十年、十五年、二十年、三十年・・・と御霊を清めていくことで、御祖神様となられていきます。



唱え詞(となえことば)について

 唱え詞の「とおつかみえみため」とは古神道として受け継がれた文字で、亀占や鹿占の際に刻まれた「ありがたい文字」として伝えられています。
 江戸時代に中臣氏の大祓詞をめぐる解釈がわかれ、国学者の伴信友は「中臣祓詞要解」で「天津祝詞乃太祝詞事」の存在を指摘しました。神社神道(神社本庁包括)ではあまり使われていないと思いますが、教派神道など独自の流れを持つ団体では、平田篤胤の残した「吐普加身依身多女 寒言神尊利根陀見 波羅伊玉意喜餘目出玉」を「三種大祓」などとして用いているようです。国学の三大人である賀茂真淵・平田篤胤・本居宣長にも見解に相違がありますので、そういうありがたい詞が残されたことを大切にしたいと思います。
 神道は土着の信仰ですから「神奈月」と「神無月」といったように地域によって差が生じます。漢字も音で伝えられたり大和言葉と同じように当て字を用いて表現しますから。当然地域によって使用される文字が変わります。都田地区と中川地区では「給え」が「多米」として伝えられています。本来の「ありがたい言葉」という意味からもこれでよいとしております。
 葬儀など最も「祓え」を必要とする斎庭では、残された親族やこれを思いやる人々の気持ちが「遠津御祖神(ごせんぞさま)」に「厳乃御霊(神聖な霊=故人)」をお導きくださいという願いとなり、唱詞として受け継がれていると考えてます。念仏や題目のように神道でも「せめて故人のために何か語りかけられる言葉はないか?」と尋ねられることも多く、そういった気持ちが形になったものとも考えられます。授業などの講義で習うものではなく、脈々と受け継がれてきたものですから大切にし、儀式の際に奏上させて頂いています。  地域ごとに解釈が分かれて当然ですので、セクショナリズムやエスノセントリズムによって統一されることなくその土地の伝承として継承されるのがよいと思います。氏子の皆様の中で、他に伝え聞いていることがありましたらお教えいただければ幸いです。



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