宮の杜




4、清々しいいのちに満ちて「清浄」


 日本民族ほど清浄を尊ぶ民族は、ほかにはいないかもしれません。少し大げさですが、古来より清浄であることが、神々に近づき、神々の境地と一体化できる道だと、私たちの祖先は考えてきたのです。
天皇の勅を伝える宣命や、お祭りの時、神にお告げする祝詞の中にも「明き清き心」とか「清き直き心」とかいう表現が、しばしば見られます。
 自然の恩恵に深くあずかってきた日本人は、自然の中に、生命、豊作、繁栄をもたらす霊性を認めてきました。あらゆるものを生みなすこの大自然の生命力を、産霊(むすび:神聖な生成力)と呼び、人間も、その産霊を命の種としてこの世に生まれ出たのだと考えるのです。「清し」・「清浄」ということばは、その大自然の生命力に満ちた、清々しくも若々しい状態を表しています。
 一方、「穢れ」は、「木枯れ」または「ケ枯れ」が語源とされ、大自然から分け与えられた生命力が凋落し、あるいは、日常の活力や姿形が枯渇している状態を意味していますが、我が国では、こうした穢れや、人間が犯した罪を祓い清めるために、川原や海に出て身をすすいだりする「禊祓い」が、古くから行われてきました。
 折に触れて反省を繰り返し、人間本来の清浄な姿に立ち返る、つまり、清々しくて若々しい生命力を再生してゆくということこそ、私たち日本人の本来の生き方であるということを、再認識する必要がありそうです。

七月

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